今日の善行は明日の蓄え

コスパだけを考えて生きています。

飲食店の経営と幸福量の上限について

飲食店の経営について思いをはせることがある。このお店はどれくらい儲かっているんだろう。なぜこのメニューだけ表示が大きいんだろう。店舗の規模の割にアルバイト数が多いんじゃないだろうか、などなど気になりだすと検挙にいとまがない。

しかしまぁ、私自身が飲食店を経営することは今後も考えにくいので、あくまで考えるだけ、妄想の一種としてごはんのお供にぼーっと考えている感じだ。

飲食店の経営は堅実に多くのもうけを出そうとしなければ、実は成功する可能性はどのビジネスよりも高いんじゃないかと考える。でも、客単価×席数×回転数で1日の売上の上限が決まるので、いくら稼げるかというのはどうしても上限が決まってしまう。

お金は多ければ多いほど幸福だろうか。有名な調査で、年収700万円と1000万円の幸福度はほとんど変わらないというものがある。さらに最近は年収300万円の方が幸福度が高いという話もある(これは真意のほどは定かではないが)

人間がお金によって享受できる幸福量には上限がある、というのが現在の感覚値だ。だから、利益の上限が決まっている飲食店の経営だとしても、利益の上限が、享受できる幸福量を上回っていれば、最高に幸せな状況だと言えるだろう。

対してしがないサラリーマンの私は、稼ぎが足らず幸福量の上限まで稼ぐにはまだまだ時間がかかりそうな状況だ。この年になると周りでは上限を大幅に超えた金額を稼ぐようになる人もパラパラと出てきており、苦虫を噛むような思いをしている。

幸福量の上限が下がるような工夫や考え方の導入が必要なのかもしれない。

大学院入試で浪人するから受験対策の意味も込めて書評を書いていくよ

大学院に行ってMBAをとりたかった

30歳になり、自分がこの後の人生で何をしたいのか、できるのかと考えたときに、理想の選択肢にリーチするためには、現在の延長線上では届かないことに気がついたのが数ヶ月前。その選択として転職や、異動や色々と考えた結果、自分にはアカデミックな体系的な知識が不足していることに気づいた。

 

ビジネスの実社会で起きることっていうのは、だいたいアメリカの偉い人が、多くの企業をサンプリングし、統計的にこうだよって答えがでたことばかりだというのにようやく気付いたのである。

 

なにそれ、チートじゃん、そんなん勉強するにかぎるじゃん。というのが志望の動機。だいたい志望動機なんてやましいことしかない。

 

受験、そして不合格

思い立ったのは昨年9月、そして受験は11月。12月に発表。一次試験で無事落ちる。さすが最も人気なMBAのひとつと言われる早稲田ビジネススクール(通称WBS)付け焼き刃ではなんともならなかった。

 

秋に落ちてももう一回春に受けて合格すれば同じ4月に入学できるんだけど、MBAや大学院の入試の本を読めば読むほど受かるかどうかとか、受ける意味あるのかなんて考えて迷走してしまった。

MBAを取ることが目的に、手段が目的になっているから一旦距離をおこう。これが現在の私の回答である。

 

何浪でもしようじゃないか

大学受験と違うのは、今の私には定職があり、やる気さえあれば何度でも受験に挑戦できるという点だろう。一回で4万円弱かかる受験料もちょっと高い受験というアトラクションだと思えば払えない額ではない。

だから私はMBAをとることが目的でなく手段となった時に再度受験しようと思う。

 

人間とは最も怠惰な生物だ

こうして時は経ち、白髪が増え人間は死んでしまうのだろう。水は低きに流れるというように、私の意志は水よりも流動性が高いので、あっという間に安易な方にながれてしまうだろう。

 

いざ受験をしようとした時に(そう思うかも甚だ疑問だが)、知識も経験もなにもかも持っていない丸裸の状態になってしまうのではないか。

それが、このブログで、初めてと言ってもいいくらい長文を書いている所以だ。

 

これから、最低でも週に一度は今の自分が興味関心がある書籍を読んでその感想を書くことにする。キリがいいので、月曜日の朝8時に予約投稿する。

 

もし更新されなければ、死んだと思ってもらって構わない。

 

他人の大学院の研究計画書が読める 

大学院に合格できる!  研究計画書 書き方実践講座

大学院に合格できる! 研究計画書 書き方実践講座

 

そんな初回はこの本を紹介したい。私の春受験でもまぐれで受かるかもなーという思いをぶち壊してくれた本だ。

 

大学院の受験を受ける際に必ず必要となる研究計画書がいくつも事例として出てくる。それを書いた人がどんな人となりで、どこにビジネスの行き詰まりや疑問を感じ、学びたいと思ったか。そしてその人は今後のキャリアプランをどう考えているのか。そのあたりが深く読み取れて、読みものとしても大変に面白い。

 

面白いとかいってる場合じゃないんだけどね。自分のキャリアプランをしっかりと自分自身と向き合って築きあげていく、それがなによりも重要だということを学びました。 

 

キャリアプランの核となりうるものは、この年だと往々にして内在化しているものである。私は何にワクワクし、何に憤りを感じたか、今一度再考する必要がありそうである。

 

いつまでもおっぱいおっぱいと言っていてはいけないのである。

東京タラレバ娘が面白くて仕方ないから新刊が出るまで家で寝てたい

仕事がない。

いや、正確にいうと、やったとしても意味のない仕事しか残っていないので、何もやる気が起きない。ここ数か月はこんな感じだ。

そりゃぁ会社でアフィリエイトとか副業とかについて調べてどんどん詳しくなっていくよね。

今年の目標はアフィリエイトや諸々の副業で月10万円稼ぐこと。

現在、2万円/月をどうやったら5倍にできるかを考えなくてはいけない。

いや、考えるというよりも考えながら動く、といった感じか。がんばろう。

仕事はまぁなるようになるだろう。

このブログが更新されているということは、暇なんだけど、まぁ生きてはいるんだなと思っていただけたら幸いだ。

更新されなくなったら、仕事が忙しくなったか、死んだということである。ちーん。

今年のことを考えながら、今日の夜ご飯は何を食べようか考える日記

年が明けました。

誰かの文章で見ましたが、年越しの瞬間を意識しなくなったのはいつからでしょうか。昔はカウントダウンをいまかいまかと待ち、日付が変わる瞬間にはジャンプしたり、初日の出を見に海に自転車で言ったら、西側が開けていて、東側は山に囲まれていたとか。

そんなことをしていたのは、ずいぶんと遠く昔のような気がするのです。今年は紅白を見て、ゆく年くる年を見ていたら日付が変わった。実に日本のど真ん中な新年の迎え方だったと思う。

年と年の区切りがどんどんあいまいになっていき、しまいには日の区切りも、時間の区切りもあいまいになるんだろう。なにもかもがあいまいになったとき、人は死ぬのではないか。

とか言って、久しぶりに死ぬとか文章で書いたよ。中学生の頃なんて毎日死ぬ―!とか書いていたのにねぇ。そりゃ私を年を取るわけです。

今日は何を食べようか。年末から体調を崩していたけれども、多少はよくなってきた気がする。あったかくて美味しいものが食べたい。

今年の目標はよく噛んで食べること。早くていいのは仕事だけで、人生も食事もゆっくり楽しみたいものです。